0 合唱組曲「草笛のうた」

 冷夏だと思っていたら猛暑がぶりかえした1983年の夏、私は少年少女合唱のための作品を、久しぶりに汗を流しながら書いていました。詩人・小黒恵子さんの委嘱にもとづくこの作曲は、少年少女合唱のための連作を私に続行させる、新しい原動力をたえず与え続けてくれたように思います。
 「小さな目」(1963年)にはじまった私の連作は、「四国の子ども歌」(69年)「川と少年」(72年)「鮎の歌」(同)「北陸の子ども歌」(73年)「駿河のうた」(74年)「阿波物語」(75年)「日本のこども」(77年~78年)「東北の讃歌」(78年)「海と祭りと花の歌」(同)「こどもの国」(79年~80年)というように年代とともに作品の数も増え、合唱組曲「草笛のうた」は20余年にわたる私の連作の中で、12番目の位置を占めるかけがえのない作品になりました。
 この「草笛のうた」はさきにふれたように、小黒恵子さん個人の委嘱で生まれました。合唱作品の委嘱は放送局や国とか県などの行政機関、そして最も多い例は力量のある合唱団体によってなされるのが普通ですが、「草笛のうた」は小黒さん個人が制作の全責任を負って下さったという、極めて稀(まれ)で貴重な委嘱の経過があります。
 新しい作品の成立には、長い時間(とき)の流れが必要です。小黒さんから作品委嘱のお手紙をいただいたのは、1980年のことでした。新しい合唱作品誕生に期待する躍るような文章と文字が、いまも私の胸に鮮やかに焼きついています。1981年の夏、ウェールズ(英国)から帰国した私は、小黒さんと久しぶりにお会いして、「草笛のうた」の構想を共同して描きはじめました。
 1982年の秋、私たちに良い知らせがもたらされました。多摩川の辺(ほと)りで育ち活躍をつづけているクラウン少女合唱団の指揮者・岡崎清吾氏が、1983年の秋の定期演奏会で、「草笛のうた」の初演を約束する……という嬉しい知らせです。多摩川は小黒さんの生まれ故郷であり、その多摩川を歌った小黒さんの詩が、おなじ多摩川のこどもたちによって歌われる……この嬉しい決定に、創作への熱い炎が私の胸のなかで音をたてて燃えはじめました。
 1983年7月1日作曲を開始、8月29日作曲を完了……このように書くと何かあっけない感じですが、作曲の委嘱から完成まで、実にあしかけ4年も時間(とき)が流れ去っていました。
 多摩川の自然をこよなく愛して止(や)まない小黒さんは、大の動物好きとして広く知られています。世界野生生物基金の会員でもある小黒さんは、「草笛のうた」の最も大切な一章として、東京の多摩川に鮭よ帰れ、という願いをこめた“ふるさとは多摩川”を、溢れる情熱と情感で歌いあげました。この歌は、高度経済成長の波にのって自然を無残に破壊しつづけてきた人人(ひとびと)へ打ちならす警鐘でもあります。
 1983年9月24日、東京のイイノホールでおこなわれたクラウン少女合唱団第14回定期演奏会で、指揮・岡崎清吾、合唱・クラウン少女合唱団、ピアノ・大久保洋子(ひろこ)のみなさんにより、「草笛のうた」は誇らかにその産声(うぶごえ)をあげました。
 組曲の副題でもある“ふるさとは多摩川”--その多摩川の辺りで、クラウンの少女たちがこの歌を高らかに歌ったあの雪降りしきる日を、私はこれからも忘れないでしょう。1984年2月26日、“東京にサケを呼ぶ会”が鮭の稚魚30万匹を多摩川に放流して、自然への回帰を願ったあの日の思い出は、凍(い)てつく寒さとはうらはらに、心暖まるかけがえのない思い出として、私の心のなかにこれからもずっと生きつづけていくにちがいありません。
                 1984年4月・遅咲きの桜咲く日に
                          湯 山  昭