7.五月の庭で
<平成5年5月16日>
木々の新芽と若草の匂いがやさしい五月の庭で、草とりをするのは楽しい。新しい発見の出逢いがあるからだ。
発芽したばかりの木のことも達が、喜々として新しい生命の喜びを謳っている。
私が生まれたずっと以前から在る 柿 椎の木 けやき もみじ 松等々のかわいい子ども達である。
一目瞭然なんの木の子どもか解るのは、楽しく微笑ましい。これから何十年何百年と続いて平和な時代がこの敷地に緑をそよがせて欲しいものだ。
生命力で頭が下がるのは、百年余にもなる藤の古木である。いま紫の見事な美しさと醉粋させる甘い香りをただよわせ咲きはじめている。
毎年花房の長さを計りながら、何年前には一米五十もあったとか、今年は花の色が濃いとか淡いとか、藤の花をこよなく愛した今は亡き母が、なつかしく思い出される。
藤の花の咲く頃は風の日が多い。ゆうらり舞い舞い揺れながら、ゆうらりふさふさ笑っているようだ。
風の流れに身をまかせ、笑っていればまるく納まる、とかく浮世はそんなものホホホ―と笑っているように思える。
ふと見上げると、﨔や椎の新緑がまぶしい緑をそよがせている。
藤の花と言えば、よく似たジャカランダの花を思い出す。アフリカのケニアの首都ナイロビの国際会議のあるホテル、街のメインストリートのジャカランダ髙木の並木通りである。ハッと立止まるほど藤の花によくにた美しさ。
夏八月とは言え、標髙一七〇〇米の涼しさと爽やかさは紫のジャガランダの美しさを、ひときわ引立てていた。
庭の草とりをやめて、ふと、この木の子供達の行く末を考えると心に灰色の雲がかかった。顧みれば、三十年余り前から酸性雨や排気ガスの影響で、毎年﨔の葉がいっせいに平均して出揃わなくなってしまった。そのうえ梢が枯れてきている。
風雪にあるいは地震に戦争に堪えて大地にどっかりふんばって今日も空と握手してるわが家の﨔の大木。私はそんな大木を尊敬し、師と仰いでいる。
然しやがて私が亡き後、都市から﨔の大木が姿を消す日も、遠くはないのではないかと思う。
木のこども達に、いとおしさと祈りをこめて、頬にやさしい四月の風の中で、木と対話していた。