跋 童詩の楽しさ
清岡 卓行
大人が全力をふるって、しかしその苦心のあとはきれいに消して、うまくあげた童詩。そんなものがあるとすれば、その作品は子供にとってだけでなく、大人にとっても楽しいものであるにちがいない。
そのいい例が、小黒恵子の「詩(二篇)」(「童話」一九七一年六月号)に眺められるだろう。
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その中の一篇「虫のつぶやき」は、いろいろな虫の生態を擬人的にスケッチしたものであるが、簡潔な焦点の合わせかたが印象的である。たとえば、ナメクジについては
悪いことは できないな
銀いろの足あとが 証拠になる
と、対外に分泌したもののほうに、かなり微視的な目なざしを注いでいる。また、バッタについても同じように
なぜだろう
タバコも 吸わないのに
茶いろのニコチンを 吐くとは
と、存在ではなく、それから分離したささやかなものを捉えて、かえって元の姿態を想像させている。
ナメクジとバッタのどちらの場合も、擬人的な比喩に苦味があって、それがリアリティの裏打ちとなっているが、クモの場合には、そうした比喩におのずからユーモアが生じているようである。
どこにも遊びに 行かれない
おなかすかして テントの見張り
待ちぼうけ つらいね
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もちろん、こうした細かい巧みさが生きるのは、その底に自然への素直な親しみが流れているからだろう。ルナールの「博物誌」を思い出させると言えば、誉めすぎになるかもしれないが、昆虫の種類も数も乏しくなっている都会の夏において、こうしたポエジーはなかなかに強烈である。
(「朝日新聞」『随筆集サンザシの実』)