1.わたしの多摩川

<平成元年6月7日>

 いつも都心からの帰途、多摩川の橋を渡る時、ホッとした気分になる。
わたしの多摩川、つまりテリトリーに帰って来たという動物的本能的な安らぎを感じるのである。
この辺りに生まれて育って生きて半世紀余り。流域の眺めは当然変ったけれど、私にとっては不変の母なる川である。
 川への親しみを感じない人はまずいないだろう。何億年も昔、生物の祖先であるアメーバも水の中から誕生した。胎児は母親の胎内の羊水の中で成長する。
 水は統べての生物にとっての母体である。だから本来水は美しく、神聖でなければならないのだ。
 然し今や工場排水、人口の急増による生活排水など様々あるが、一人一人の日頃の心がけによって、汚染度が大分違ってくる筈だ。
 六月一日は太公望にとってもグルメにとっても、待ち遠しい鮎の解禁日、私が少女の頃、多摩川で天然の鮎が沢山とれた。その鮎はなぜかツーンと新鮮な割りたてのスイカの匂いがしたものだ。この東京ではもう絶えて久しく、そんな鮎にお目にかかったことが全くない。またまるたというコイ科の草魚のような太った大魚もいたものだ。
 「時の流れ」は水の流れを変えた。
 然し私は多摩川とのながいかかわりのなかで、ひとつの教訓を得た。
 川がとどまることなく、「海」という一つの大きな目的に向かって、ひたすら流れるように、私も希望と言うわたしの海に向かって泳いで行きたいと。
 川はどんなに紆余曲折しようとも、やがて目指す海にたどることができるのだ。
 そうわたしは多摩川の魚なのだ。
 わたしの詩(うた)をうたいながら、わたしの海に向かって、ひたすら泳いで行こう。