2.花火

<平成元年8月9日>

 花火にまつわる思い出は、人それぞれにあるものだ。
 花火と言へば、かつて日本のゴッホと言われた故山下清の貼り絵はすばらしい。夜空にはじける音まで聞こえてきそうな感じがしたものだ。山下清の花火の絵を、私に一層すばらしいと思わせたのは、あの週刊新潮の表紙絵を何百枚と描き続けた抒情の画家、故谷内六郎さんであった。
 谷内さんは一時山下清の絵を絶賛していた。その頃谷内六郎の世界に傾倒していた私は、言葉の一つ一つを大切に刻んでいたものだ。山下清の貼り絵のすばらしさを、谷内さんによって倍加したと言えるかもしれない。
 「山下清は花火の日と場所を調べて、どこへでも見に行くそうです」と言っていた谷内さんを思い出す。
 私の家は部屋の中から、二子玉川の花火がよく見える。枝豆のおつまみでビールをのみながら、犬二匹と九官鳥と一緒に見るひと時、幸せというのかもしれないと思う。
 然しこの同じ場所で、かつては家族揃って賑やかに見たものだが、こうしてシッポや羽のある家族と見るいま、時の流れを感ぜずにはいられない。
 今年の二子玉川の花火は土砂降りの雨のなか決行した。眺めているうちに何故か、二十年余の苦い思い出がよみがえった。
 ある日突然恋人の父親から帝国ホテルのロビーに呼出された。その日、出がけに腕時計のガラスが割れ、不吉な予感を振払うように約束の場所へ行った。「息子と別れて下さい。」開口一番に言われた。
 その帰途漸く二子玉川に辿り着いたとたん、ドドドドーン ドドーンと腹の底に響く花火の音に迎えられた。その時こらえていた涙がいっきに土砂降りの雨となった。
 ドドドドーン ドドンドーン過去と現在の音と音を重ねて、土砂降りの花火を眺めていた。
 時の流れはすばらしい。どんなに苦い思いでも、甘さを添えて蘇る。リンゴがお酒になるように。